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人に触れられるのが怖かった。
頭ではわかっているのに、長年刻み込まれた恐怖というものはそう簡単に消えてはくれなかった。
身体が、心が覚えているのだ。自分が思っているよりも鮮明に。
もうここには、私を苦しめるモノは居ないというのに。
とん、と誰かの手が私の肩に触れた。
昔の事を思い出していた所為もあって、いつも以上に過敏に反応をしてしまう。
今、私は一体どんな表情をしているのだろう。
自分では見えないけれど目の前にいる人物を驚かせて、そして悲しそうな表情をさせるくらいには怯えた顔をしているはずだ。
「ごめんなさい。何度も呼んだのだけれど気づいてもらえなかったみたいで……」
気が付けばどうやら放課後になっていたらしい。教室に残っているのは数人のクラスメイトだけだった。
すまなそうに謝る彼女の姿にものすごく罪悪感を覚える。悪いのは私なのに、どうしてそんなにいつまでも彼女は優しいのだろう。
肩に触れた手は本当に軽く、私を気遣うようなものだったのに。
「大丈夫」と言った私の声は情けない程に掠れていた。
彼女は絶対に私を傷つける事は無い。それでも身体は拒否してしまう。
こんなにも声を掛けられるのがすごく嬉しいのに。他の人みたいに笑い合って、ふざけてみたりしたいと思うのに。
「ごめ、んなさい」
「え?」
「いつも気にしてくれるのに、傷つけちゃう……」
そう、いつもだ。まだ慣れていない自分に苦笑いがもれる。もう少なくとも2年は経ったのに。
私は申し訳なくなって俯いた。そしてもう一度心の中でごめんなさいと呟く。すると頭の上からくすくすと笑い声が聞こえてきた。
えっ? と不思議に思って顔を上げると、何がそんなに可笑しいのか蓉子さんが口に手を当てて笑っていた。
「あ、の。えっと、なんか変なこと言った……かな」
「ごめんなさい、あまりにも可愛かったから」
「か、可愛い!?」
私が可愛いなんてある筈が無いのに、蓉子さんはなんて事を言いだすんだ。
素っ頓狂な声を上げてしまった。そりゃ嘘でも、う、嬉しいけれど何だか気恥ずかしい。馬鹿みたいに顔が真っ赤になっているんだろうなって思う。
そんな私を見て蓉子さんは満足するかのように、誰もが見惚れそうな笑顔をして「ええ、可愛いわ」と頷いてみせた。
恥ずかしくなってきて、思わず視線を逸らす。するとまた可笑しさがこみ上げてきたのか、蓉子さんは笑い出したのだった。
もしかしてからかわれているんじゃないだろうか。
少し恨めしげに蓉子さんを見上げた。
「怒らないで」
「怒ってなんかない」
「じゃあ拗ねてる?」
「拗ねてないもん」
「そういうところが可愛いのよね」
「もういいってば」
「ほんとうよ?」
そう言いながら蓉子さんはゆっくりと手を上げた。私はその後に蓉子さんが取る行動を知っている。そして私はそれがとても嬉しかった。
蓉子さんは壊れ物を扱うかのような手つきで私の頭に手を置く。そして優しく撫で始めた。
私は黙ってその行為を受け入れる。蓉子さんの手は温かくてとても安心した。
目を瞑ってその感触を私は楽しむ。まるで子供みたいだと自分でも思うし、他の人も思っているかもしれない。でもやめる気なんて湧かない。そう、誰になんと言われようとも。蓉子さんがしてくれなくなるまでは……。
「蓉子さんってお母さんみたい」
目を開けて目の前にいる蓉子さんにそう告げると、蓉子さんは眉をしかめた。
「同じ歳なのにその言葉はいただけないわね」
「だって蓉子さん同い年には見えないんだもん」
「老けてるって言いたいの?」
「そうじゃなくて。なんて言うかな、凄く頼りになるから。だから……甘えちゃうんだ」
いけないと分かっていても、でもやっぱり甘えてしまう。しっかりしなくちゃいけないと思ってはいるんだけれど。
口にして言いはしないのに、蓉子さんにはどうやら思っていることが伝わったらしい。にっこり笑うやいなや両手で私の頬を包むと顔を近づけてこう言った。
「私でよければ好きなだけ甘えてくれればいいわ」
「でも……」
「あら、不服?」
「違う!そういうんじゃなくて……重荷になっちゃうかなって」
蓉子さんは優しいからいつも誰かの面倒を見ているし、忙しそうだし、いろんな人に気を配って、気を抜かずに頑張っているから。
まるで張り詰めた糸の様で、そんな糸にぶら下がったら私の所為で切れてしまうんじゃないかと思うと怖かった。
「重荷になんてならないわよ。むしろその逆」
「え? どういうこと?」
「分からない?」
その問いかけにこくりと頷く。すると蓉子さんはいたずらを思いついたようににやりと笑った。
「智恵さんから見て私ってどういう風に見える?」
「へ? えっとー……何の関係が」
「いいから」
「どういう風にって……頑張り屋さんとか?」
「そんな感じで」
「んー、優しい。真面目。優等生。成績優秀。容姿端麗。面倒見がいい」
取りあえず思ったことを次々に挙げていくと、それを聞いた蓉子さんは苦笑いを浮かべていた。私はそんな人間ではないわよと言いたそうにしている。でも私はそう思っているのだから言うしかない。
「怖い物好き」
「怖い物好き?」
「ちょっと違うかな。うーん、好奇心旺盛? 面倒ごと好き?」
「なぁにそれ」
「だって、いまだに私の事まめに構ってくれるの蓉子さんぐらいだし」
蓉子さんはきょとんとした様な表情をしたかと思うとぷっと吹き出した。そんなに面白い事言ってないような気がするんですが……。どうやら蓉子さんの笑いのツボは私とは少し違うらしい。
暫くそんな蓉子さんの姿を眺めていると、自分の何かが笑われていると言う事実を忘れて嬉しくなった。なんたって私は、蓉子さんの笑った顔が好きだから。
「智恵さんもにやにやしてる」
「にやにやとはして無いよ。たぶん」
「してたわよ」
それにはそう? とだけ返しておいた。このままだと「してた」「してない」の繰り返しできりが無いだろうから。下らない事だとは分かっているのに、人はなぜかそういう時に限って後に引けないものだから。
蓉子さんもきっと同じ事を感じていたのだろう「それで他には?」と話題を変えてきた。
「他に? 他には……」
「もう無い?」
別に残念そうにするわけでもなく、怒っている風でもなく、ただ単に聞いているようだった。
そのあっけらかんとした様子を見て、言うか言わないか迷っていたけれど、なんとなくこの言葉を蓉子さんが待っているような気がして、私はいつも思っていることを口にした。
「張り詰めてる糸みたいって思うときもある……」
「……そう。なかなか鋭いところもあるのね。それで?」
「え、それでって?」
「重荷にならない理由分かった?」
ああここで最初の話に戻るんだ。でも今までの会話は何の関係があったのかまではさっぱり理解できない。回りくどくしないでこうだって教えてくれてもいいと思うんだけれど。
「わ、分からない」
「うーん。じゃあヒントね。張り詰めてる糸が緩む時があるけれどいつだと思う?」
「あ、教えてくれないんだ」
「本人に自覚してもらいたいから」
「はぁ」
「なんだか面白いわね」
「……意外と意地悪って言うの付け加えてもいいかな?」
そう言うと蓉子さんは今日の中で1番豪快な笑い声を上げた。そんなに面白い事言っていないんだけれどなー。
えっとなんだっけ、緩む時があるけどいつかって話だったっけ。全然分からない。私が見ているとき大体そんな感じだと思うけれど、でも聞いてきてるんだから少なくとも私が正解を見ているか誰でも予測がつく時なんだろう。
必死こいて考えている私を横目に蓉子さんは1人楽しそうに答えを待っていた。
「お家に居る時なんじゃない?」
「はずれ。学校に居る時でよ」
「学校に居る時?」
「そう、居る時」
「学校で……」
緩むって言うのは要はリラックスしているとか気を抜ける時と考えていいわけだし、そうなると仲の良い友達の前とかになってくるんじゃないのかな。だったら他の生徒の目がほとんど届かない所とかになってくるんじゃないだろうか。
するとだ、ほぼ通っている場所が蓉子さんにはあるからきっとそこなんじゃないかと思う。同じような境遇を持った人たちが集まっている事だし、仲が良いし。
うん、間違いないきっと薔薇の館だ。
「ふふふ、ずばり薔薇の館でしょ!?」
「ううん」
「え!? ち、違うの?」
「ええ、違うわ。まぁ確かにそこもそうだけれど、それって当たり前すぎ居ない?」
「それはそうなんだろうけれど」
自信満々に言ったのが凄く恥ずかしい。どうにか少し前に戻れないかなって馬鹿な事を考えていると、蓉子さんの人差し指がちょんちょんと鼻の頭を触った。
「今、目の前にいる私ってどう?」
「目の前にいる蓉子さん?」
「そう」
後は正解を言うまで何も教えてあげないと蓉子さんは言った。今のはかなりの大ヒントだったわと付け加えて。
先ほどに増して楽しそうにしている。ん? 楽しそうにしている?
探しているものの在りかがもう少しで思い出せそうなそんな気分になる。もう一度良く見よう。目の前の蓉子さんはどんな感じなのか。
じーっと視線を向けると蓉子さんは少し怯んだ様に「な、何?」と上体を反らした。私は気にせずそのまま見続ける。他人が見れば変な人物だと思われるだろう。でも幸いな事に何人かいたクラスメイトもいつの間にか居なくなっていて、教室には私と蓉子さんの2人だけ。廊下も今は誰も居ないからお構い無しに観察できる。
今まで全く気が付かなかった。でもちゃんと思い返せば確かにそうだったと言える。その事実に嬉しくなった。
でも、とも思う。本当にそうなのだろうかと。私の思い過ごしなんじゃないだろうか。期待しただけ違った時の落ち込みようは半端じゃない。
私が聞く前に痺れを切らして蓉子さんが言ってくれないだろうかと思ったけれど、今までの蓉子さんから判断してそれは無い。すんなり答えを教えてくれる人じゃないから、蓉子さんは。もちろん意地悪で言っているんじゃない。その人のためにならないからだって、そこまで考えてくれているから。
だから、違っている可能性はかなり高いかもしれないけれど自分から言ってみようと思う。たとえ間違ったとしても蓉子さんは絶対に笑ったり、怒ったりしないから。
「わ、私と……」
「私と?」
「居る、とき。かな?」
「もう一回ちゃんと言って」
「私と居るとき……」
「なんで自信なさそうに言うのよ」
「だって、自信ない」
「私としては自信満々に言って欲しかったのに」
「えっと、じゃあ」
「正解。これで少しは自信、持てるかしら?」
やっぱりお母さんみたいだなって思った。口に出して言いはしないけれど。
蓉子さんの笑顔が嬉しくて、思わず抱きつきたくなる衝動を抑えた。触られる事を怖いと思っている自分がそう思うんだからかなり嬉しいんだろう。まるで他人のように言っているけれど、でも実際そうなのだからそうと言うしかない。それほど身体は心以上に反応するから。
でもまさか蓉子さんが私を、気を抜ける場所として思ってくれていたなんて。恐れ多いような気もするけれど、正直な所、特別だよって言ってもらえてるみたいで凄くいい気分だったりする。図々しい奴だなって自分でも思うけれど、顔が勝手に緩んじゃう。
特別な居場所をくれる。だから私は心地よくこの場所で生活が出来るんだと思ってる。
昔よりは断然ましにはなったものの、やっぱり窮屈な思いをしていたから。それは誰の所為でもなく、自分自身で追い詰めていたからなんだろうけれど。今は随分とのびのびしているものだ。
「智恵さんは?」
「え?」
「私と居るとどう?」
そんなの聞かなくたって分かるんじゃないのかなって思うんだけれども。改めて聞かれると妙に気恥ずかしくなって、言えなくなるものじゃないかな。
でも蓉子さんは私がどう思っているのかを言わせる気満々だ。有無を言わせない目をしている。結構強引な所があるんだなーって、前から薄々は思っていたけれどね。
「……蓉子さんと居ると、落ち着く、よ」
「なんだか心がこもってないような言い方ね」
「だってそんなに見られてたら言いづらいに決まってるよ」
「なによ、恥ずかしがる事無いじゃない。長い付き合いなんだから」
「知り合って2年くらいだけど?」
「そういうのは時間の問題じゃないでしょ」
そう言われてしまえば私は何も言えなくなる。確かにそうなんだけれども、長いって時間の事なんじゃないのかなぁ、言葉的に。だとしても私がなんと言おうとも、蓉子さんに言い包められてしまうんだろうけれど。
「ねえ、私だけ?」
「な、何が」
「その落ち着くってやつ」
1人嬉しそうにしている蓉子さんは、まだまだ私の口から何かを引っ張り出したいらしい。もしかしたら蓉子さんも意外とこういうところは私と同じで、自分も特別なんだっていうのが欲しかったりするのかもしれない。なんて、まさかね。
しかし、どうしたものだろう。さっきと同じ状態だ。これは言うまで許してくれなさそうだ。
「どうなの?」
「そ、それは……また今度っていうことで」
「だーめ」
「意外とじゃなくて、かなり意地悪だ……」
「あら、今更気が付いたの?」
ふふふ、と笑う蓉子さんはとても楽しそうで、ちょぴり意地悪そうだった。