靴箱を開けると、靴の上に黄色い封筒がちょこんと1枚乗っていた。いまどき手紙なんて珍しいと思いつつそれを手にとり表と裏を見たものの、それには宛名も差出人の名も書かれていなかった。
いったい誰からなんだろう。そもそもこの手紙は本当に私宛なのかすらもわからない。まぁ、でかでかと靴箱には名前のシールが貼ってあるから、よほどでない限り間違えるという事は無いだろうけれど。
首を傾げつつ、取りあえずそれを開封してみることにした。もし、私への手紙でなかったときは……見なかったことにしよう。
手紙は糊付けされてなく、いとも簡単に開いてしまった。これじゃあプライバシーもなにもへったくれも無い。付け忘れたにしては余りにもお粗末すぎる。他の人宛だったらちゃんと糊付けして届けてあげよう。
簡単に開いてしまった封筒の中には便箋が1枚。二つ折りにされていたそれを広げるとそれには、大きな字でたった1行、こう書かれていた。
これを読んだら、すぐ私の所に来なさい
……いやいや、あんた誰だよ!?と普通ならば思うところだろう。そう、普通なら。しかし誠に残念なことに、私は物凄くこの手紙を書いたのではなかろうかと思われる人物に心当たりがある。というより、学校中探し回ってもその人物しかいないだろう。
何でまた命令口調で偉そうなんだろう。来いって、せっかく降りてきた階段をまた昇れと言うのか。若いからといって疲れないわけじゃないんだぞ!と、本人の前で言ってやりたい。たぶんさらりと「そう」とか一言で済まされるのは目に見えているけれども
このまま帰ってしまおうかとも思ったけれど、今日は良いとして後日なにをされるかわかったもんじゃないので、渋々ながらもう1度来た道を引き返すのだった。
いつもならちらほらと人を見かけるけれど、なんたって今日は私にとってはそうでもないけれど特別な日だ、校舎のそれも人の目に付く所には人っ子一人いなかった。今頃多くの生徒たちが自分お手製のお菓子やら編み物やらと、今日のために悩み抜いて用意したものを手渡していることだろう。
ちょうど通りかかった窓から1組の姉妹の姿が見えて、これまた初々しい光景でついこちらまで顔が綻んでしまった。こういうのを見ていると姉妹っていいなぁ〜って思う。何だか見ているこっちも心温まるよね。
なんて考え事をしていたらあっという間に、脅迫まがいとしか思えない手紙を寄越した人物がいる教室へとたどり着いていた。
「遅かったわね」
「いや、遅かったわねって…。わざわざ手紙寄越さないで教室に来てくれたらよかったのに」
「あら、それじゃあ面白くないじゃない」
「いやいや今も面白い状況じゃないし」
「私は面白いけれど」
「さいですか」
ふふっと楽しそうに笑う江利子さんはどうやらご機嫌がいいらしい。いったい何がそんなに楽しいのだろうか。江利子さんのつぼが私にはさっぱりわからない。
「ここに来たってことは、あの手紙私が書いたのだってわかったのね」
「そりゃ、あんな手紙を寄越すのは江利子さんぐらい…江利子さんしかいないね」
「お褒めに預かり光栄だわ」
「いや、褒めてない褒めてない」
ぶんぶんと私はかぶりを振るが、それがかえっていけなかったのか江利子さんは嬉しそうに目を細めていた。何でこの人は嫌味とか皮肉とかそういうのが全く通じないんだろう。逆に私がそういうことを言うのを、面白いものを見るような感じだし。
何を言っても無駄だと再度確認したので私は諦めて、江利子さんが今から言う、恐らく突拍子もない事に衝撃を受けないように心構えをするだけだった。
「それで呼んだ理由は何でしょう」
「知りたい?」
「…帰ってもいい?」
「あら、私は構わないけれど?さんにそんな度胸があるのならの話だけれども」
江利子さんは不敵な笑顔で私を見てくる。ぞわりと鳥肌が立ったのは、本能が何か危険だと感じたからだと思う。一体私は何をされるというのだろうか。わからないけれどいつも以上に身の危険を感じるので、ここはおとなしく従っておくことにしよう。
「帰らないの?残念ね。その時はその時で私としてはおいしい状況になったのに」
「な、何する気だったの?」
「聞きたいの?」
「…ううん。止めとく」
知らない方が良い事も世の中にはあるものだ。昔の人が言うことは何かがあって、そう名言を残しているのだから参考にしたほうが良い。今まさにその時だといえる。
1人心の中で納得していると、江利子さんは鞄から透明の袋を出してそれを私へと差し出した。見間違いでなければ、その中身はチョコチップクッキーである。目を瞬かせた後、クッキーから江利子さんのほうへと視線を移すと、いつもでは見られない普通の笑顔の江利子さんがいた。普通と言ったら失礼か、いや、いつもはもっと何かを企んでますというような顔なんだって。
「えっと…貰っていいのかな?」
「ええ勿論。というより貰ってもらわなければ私も困るのだけれど」
「そうなの?じゃあ遠慮なくいただきます」
「苦労して作ったんだから」
その一言でなんとなく想像が出来た。昨日もそして今日も江利子さんの家は大騒ぎだったに違いない。あの御方たちが。
思わず苦笑いを返すと「本当に大変だったわ。追い払うのに」と思い出したのか、心底嫌そうな表情をしていた。相当苦労したことがそれからは伺える。いったいどんな騒ぎになったのだろう鳥居家は。
「まあ、小父さまたちも気になったんでしょ。誰に渡すのかって。男の人だったら心配だろうし」
「そんなのまで干渉して欲しくないわ。第一私の勝手でしょ誰かと付き合おうが何だろうが」
「んー…それはそうだけれど、小父さんたち江利子さんのこと溺愛してるからね」
「…どうにかして欲しいわいい加減」
「はは。でもさ、小父さまたちにも作ってあげたんでしょ?だったら…」
「作ってないわよ」
「え!?作ってないの」
「ええ、作ってないわ。父たちにあげなきゃいけないって決まってないでしょ」
さらっとそう言い退ける江利子さんに私は正直絶句してしまった。てっきり私は小父さまたちにもあげているものだと思ったんだけれど。それは小父さまたちも大騒ぎするわけだよ。自分たちは貰えないというのに、赤の他人の為に可愛い娘、妹がクッキーを焼いているんだものねぇ。しかし、その中で平然と作っていたんだろうな江利子さん。さすがというべきなのかなんというか。
「何か言いたそうね」
「いや、ついでに作ってあげれば良かったんじゃないかなと」
「あげたらあげたで煩いわよ」
「それもそうだね…。悪いけどそれは否定できないわ」
「それに私は、あなたにだけ作りたかったんだもの。家族であろうと作ってあげるだなんて言語道断だわ」
江利子さんがさらりと言いのけたその台詞になぜかどきりとしてしまう。どうしてだろう、最近になって江利子さんが言うなんて事の無い言葉がいちいち気になってしまったりする。少しだけ顔が熱いような気がした。
「少しは進歩したのかしら」
「へ?何が?」
「…そんなことなかったわね」
「だから何が?」
江利子さんは意外という様な表情を見せたかと思いきや、次には眉間に皺を寄せて溜息を付いていた。
私には江利子さんが何を指して言っているのかさっぱりわからない。だから何がと聞いているのに、江利子さんは答える素振りを見せる様子が無い。なにか、これは新しい嫌がらせなのだろうか。
「鈍いにも程があるわよさん」
「いや、だからさっきから話が見えないって」
「私にだって我慢の限界というものもあるのよ」
そう言って江利子さんはじりじりと気迫せまる様子で詰め寄ってくる。良くわからないけれど、なんとなく一定の距離は取っていたほうが良い様な気がして、江利子さんが進んだ分私は後ろに下がっていった。
けれど当たり前だが永遠に退路があるわけでも無く、私の背中には無残にも教室の壁が立ちはだかった。私はもう逃げられ無い状況で、あとはただ江利子さんが保っていた距離を詰め寄ってくるのを待つばかりになってしまった。
「残念ね。もう逃げられないわよ」
「ちょ、江利子さんなんか目が据わってない?」
「そんなこと無いわよ。私は至っていつも通りよ」
「そんなこと無いと思うけど」
なんてこぼしたりしたけれどそれは江利子さんの耳には届かなかったようで、いつの間にか江利子さんと私の距離は殆ど無くなってしまっていた。
気づけばいつの間にか顔が凄く近くにあって、いつも見慣れているはずなんだけれどなぜだか直視できない。さっきから手に汗をかいているし体も熱いような気がする。そう、それはまるで……
「江利子さんごめん。私、風邪引いたみたい」
「……は?」
「いやだから風邪引いたみたいなんだ」
これは絶対風邪の初期症状で間違いない。まだ頭痛や喉の痛みや気だるさは無いけれど、放っておけば大変なことになってしまう。
さん、それ本気で言っているの?」
「え、何で?本気だけれど…」
嘘でしょう?みたいな表情で江利子さんは問う。けれど私は至って本気で真面目に言っている。なんで江利子さんは嘘だと思ったのだろうか。そんなに急に風邪は引かないって言いたいのかもしれない。
江利子さんは「はぁ…」と溜息を付きながら自分の頭を押さえたので驚いてしまった。まさかもう私の風邪がうつってしまったというのか。
「江利子さん頭痛いの?」
「ええ。物凄くね」
「ご、ごめんね?風邪うつった?」
「…そういう言動が頭痛の原因なのだけれど」
「え?えっとー…」
そういうってどういうの?なんて言ったら江利子さんの頭痛はより一層酷くなってしまうだろうか。きっとまた溜息なんか付いちゃったりするんだろうな…。とりあえず自分が原因だというのはわかっているので、もう1度「ごめん」と謝ることにした。
「押し倒すぐらいの事すれば分かってもらえるの?」
「ぅえ!?お、押し倒すって…」
随分とまた物騒な話になったものだ。それだけ怒りは頂点に達していると、鋭い視線を向けてくる江利子さんはそう言いたいのかも知れない。けれど流石に私だってそこまでされたら黙ってはいられない。暴力はいけないと思うんだ。
「江利子さんが押し倒しでくるなら、私は突っ張りで応戦だ!」
昨日のテレビをこんな状況でふと思い出した私はそう宣言をした。勝てなくても良い、最後まで諦めないことが肝心なんだってそう言ってたもんね。
熱い戦隊もののリーダーみたいにずばしっと指差すと、指されたほうの江利子さんはなんだか濁った様な瞳で無表情に私を見ていた。
恥ずかしいのと気まずいのと、そして底知れぬ恐怖を感じた私は、視線を江利子さんではないどこかに向けながらゆっくりと腕を下ろす。空気がすごく重い。まるでここだけ、いや私だけ重力が変わってしまったように思えて仕方がない。
ちらりと一瞬だけ江利子さんのほうを見ると、もう早速トラウマと化しているあの表情はしていなかった。代わりと言ったら可笑しいけれども、俯いたまま何事かぶつぶつと呟いている。少し…、かなり様子が変だったので江利子さんと声をかけようとしたその時、ばっと顔を上げて私を見たかと思うと、ふふふと笑い声を上げだした。
「今日の所は諦めておくわ」
「な、何を?」
「徐々に教えてあげるから、覚悟しておきなさい」
そう言うやいなや、江利子さんはすっと私の頬をひと撫でして、また「ふふふ」と笑いながら教室を去っていった。
今のは何だったんだろう。江利子さんの中で何かに火が付いたようだったけれど…。不敵に笑いながら言った江利子さんの「覚悟しておきなさい」という言葉が耳に残って離れない。一体何を覚悟したらいいと言うんだろう。
ぞくりと身体に悪寒が走る。これは風邪から来たものなのか、それとも……
江利子さんが帰ってしまった今、いつまでもここに居ても仕方が無いので取りあえず帰ることにした。今日は早めのお風呂に早めの就寝にしよう。そう思って手に持っていたクッキーを鞄に大事に入れようとした時ふとあることに気が付いた。そう言えばクッキーのお礼を言っていなかったと。
何よりも先ず帰ったらすぐにクッキをー食べて、江利子さんにお礼の電話をしよう。
「心のこもったクッキーをありがとう」って。