帰ろうと思ったのもつかの間、ある音色が気になって私は歩みを止めた。久しぶりだけれどこの聞きなれた音色は絶対に間違えることはない、祥子さんのものだ。最近はご無沙汰だったのにどうしたんだろう。
そんな久しぶりに聞いた心地よい調べはなぜだか私を呼んでいるような気がして、迷わず祥子さんがいるであろう音楽室へと向かって歩いた。
普段なら掃除と授業意外では近づかない音楽室。なぜかと言うと、こういった特別に作られた教室は理由もなく近づきがたい雰囲気を持っている気がするからだ。別に壁に掛かっている昔の音楽家たちの肖像画が怖いとかそんな理由ではない、断じて。…ちょっとだけそれもあるかもしれないけれど。
ガラガラと重たい扉を開けると、微かに聞こえていた音色は身体全体を震わすような衝撃を与えた。鳥肌が立つ。いつもそう、祥子さんが弾くピアノの曲を聴くとこうなるんだ。
考え事をしながら弾いているのか、いつもの様に楽しそうな感じではなく、ちょっと難しそうな表情をしている。しかも私が音楽室に入って来たことさえも気が付いていなかった。だから私もあえて声をかけず、そのまま祥子さんの演奏を黙って聴くことにした。
祥子さんの気が済むまで待っていようと思い、2曲が終わった。曲目とかはさっぱりわからないけれど、でもすごく心地よい。音楽に精通している人から思えばこんな曲も知らないのか、なんて言われそうだけれど。ああ、でも祥子さんはそんなことを決して言ったりしないなとぼんやり考えていると、前のほうからふぅっと溜息が聞こえた。祥子さんはどうやらもう弾く気は無いらしい。私はゆっくり立ち上がって祥子さんの所へと向かった。
「相変わらず綺麗な音色だね」
「え、さん!?い、いつの間に」
「ん〜、結構前くらいからかな」
「そう…。全然気が付かなかったわ」
そういって申し訳なさそうな顔をする祥子さん。別に悪いことをしたわけじゃないのにと思わず笑ってしまった。
「なにが面白いのかしら?」
「だって、いつもの祥子さんらしくないじゃない」
「あなたは普段私を何だと思っているの」
「そうだねー。頭が良くて、いつも自信満々で、近寄りがたくて、癇癪持ち」
1つずつ言っていくごとに段々と祥子さんの顔が怖くなってゆく。けれど今はそういうのを見るのも楽しくて、私は構わず続けて言った。
「ちょっと!いくらなんでも言い過ぎなのではなくて!?」
「ほら癇癪を起こした」
悔しそうに、今にもハンカチを出して引き裂きそうな感じ。まぁ、実際にそんなことをする人はいないけれども、そんなイメージが彼女には付いているのだ。
祥子さんはぐぐっと怒りを静めて黙り込む。けれど顔では不機嫌だというのがありありと現れていた。
他に人が見たらどう思うだろう。きっと驚きを隠せないに違いない。皆の瞳には小笠原祥子という人物はこういう風に感じられないはずだから。私がそれに気が付いたのは随分と最近のことなのだけれど。
頭が良くて癇癪もちだというのは私の意見。でもいつも自信に満ちているとか、近寄りがたい雰囲気だとかというのは、皆が話している小笠原祥子のイメージ像から。憧れ過ぎてて、釣り合わないと勝手に思ってて、彼女たちは祥子さんと少し距離を置いている。流石に同じクラスの子たちはそんなことはないけれど、でも中にはそういう人も何人かいるのは事実だ。
小笠原と言う名と山百合会の一員であるということが彼女をそういう風にしているんだろう。まあ、全部が全部って訳ではないだろうけれどね。少しは祥子さんの要素も入っていると思うけれど。でも私はちょっと皆とずれているらしくて、そんなことは一切頭には無かった。
「あ、そうだ忘れてた」
拍手喝采とは程遠くて申し訳ないけれども、私は最大の拍手を祥子さんに送った。祥子さんはふっと笑うと椅子から立ち上がり、私の拍手に答えるように、スカートの両端の裾を持かるくち上げてお辞儀をする。そしてお互いに視線が合うとどちらからともなく笑い会う。
「少しは気が晴れたかな?」
「やっぱりわかっていたのね」
「それはまぁね。結構長い付き合いだし。少し迷いがあるような音だったから」
「敵わないわね、あなたには。抜けているように見えるけれど意外と鋭いところがあるのよね」
「抜けているって言うのは余計だよ」
さっきとは立場が逆になって、私がむっとした顔になって祥子さんがくすくすと楽しそうに笑っている。こっちこそ祥子さんには敵わないと思うんだけれど。でもまあ、今日はおあいこってところかな。
ふと祥子さんの笑い声が止まったかと思うと、私以外ほとんど見たことのないと言われる優しい笑顔をしていた。相当機嫌が良いらしい。と、これもまた他の人から聞いたんだけれど、確かに言われてみれば会った当初はこんな風に笑っていたりしなかったような気もした。私はもう見慣れていてわからないのだけれど、そうらしいのだ。
「あなたは本当にとても不思議な人ね」
「へ?どこら辺が?」
「変に気を張らなくていいというか…一緒に居ると力が抜けるわね」
「……それって褒められてるの?」
「あら、褒めているつもりだけれども」
「そう?んー、まぁ一応お礼を言っとくよ。ありがとう」
「どういたしまして」
なんだか腑に落ちないけれども、本人が褒めていると言うのだから褒められているんだろうと…思いたい。祥子さんはあまりこういう事を言わない筈だから信じていいと思う。最近はちょっとそこら辺あやしくなってきたんだけれども。
でもこうやって話せることはとても嬉しい。毎日同じ学校に来ていて久しぶりって言うのはおかしいかも知れないけれど、仕事とか忙しそうで、その上クラスも変わってしまったから確かにこうやってゆっくり話すのは久しい。だから楽しくてしょうがないや。
それは私だけじゃなくて祥子さんもそうだと思うんだ。いつになく笑っているほうが多いから。
「元気そうで良かった。なかなかこうして話せてなったから」
「確かにそうね。機会があってもお邪魔虫が入ってくるもの」
「お邪魔虫は言いすぎじゃない?」
「じゃあさんは私と2人っきりで話をしたくないの?」
「いやしたいけれど…」
それでもお邪魔虫はやっぱり言いすぎなんじゃないかなって言ったら、祥子さんはまたくすくすと笑って「冗談よ」だなんて言った。やっぱり祥子さんは大分変わったようだ。ちなみに比較対象は会ったばかりの頃の祥子さんです。
「はぁー…祥子さんが冗談を言うようになったとは。成長したね」
「どういう意味よ」
「どうもこうも…ん?何か祥子さん甘い良い匂いがする」
話の途中だけれどもそっちのほうが気になってしょうがない。この匂いは今日いたるところから漂ってきたものと近い。今お腹が丁度減ってるから鼻が敏感になってるんだよね。
くんくんと祥子さんに近づくと「まるで警察犬みたいね」なんて言われてしまった。せめて子犬って言って欲しかった。そうすればぐっと違って、同じ生き物でも可愛く聞こえるのに。
「チョコレートかなぁ」
「当たっているし…。そうよ、チョコレート」
「珍しいね。祥子さん誰にも貰わないはずだったのに、今年は違うんだ?」
「あなたの言うとおり、誰にも貰っていないわよ」
「え?じゃあなんで?」
「それは……」
祥子さんが珍しく口ごもる。はっきりしないのが嫌いなはずなのに祥子さんは。どうしたんだろうと私が首をかしげていると、祥子さんはおもむろに側に置いてあった自分の鞄を手に取った。そしてその中から赤い包装紙でラッピングされた箱を取り出して私に渡す。かと思ったらもう1つ、透明の袋にハート柄がプリントされたマフィンの入った袋も渡された。
「えっと?」
「こっちの箱のほうが私からの。こっちがお母様から」
「私に?」
「あなた以外に誰がいるの」
「それもそうだね。……ほんとに貰っても大丈夫かな」
「一体何を心配しているのよ」
だって、祥子さんから今までこんなの貰ったこと無いし。すごーく嬉しいんだけれど、これ物凄く高かったんじゃないかなって思って。私の全財産出してもお返しを出来そうに無いような気がしてならない。
なんていう私の思考を読み取ったのか呆れるような顔をして「いい?」と念押しされた。
「言っておくけれどもそれは私の手作りよ」
「…え!?祥子さんが作ったの?」
「そうよ。私が作ったの」
その言葉に正直驚いてしまった。いや、別に祥子さんが料理をしたことに驚いたんじゃなくて、こういった行事に余り関心が無かったように見えたから貰ったこと自体にも驚いたんだけれど、それ以上に手作りだということに衝撃を受けてしまった。
こればっかりは隠し切れない。だから祥子さんは私の顔を見て「心外ね」と漏らしていた。いやいや私の反応はいたって正常だと言ってやりたい。今までが今までなんだからね。
「あの祥子さんがねー…」
「何不満なの?」
「そうじゃなくて。随分と丸くなったなと思って」
「じゃあ私はいつも尖がっていたと言うの?」
「いやー。まぁ」
「ちょっとどういうことよ」
こんなじゃれあいも慣れたものだと可笑しくなって思わず吹いてしまう。すると祥子さんも釣られて笑い出し、音楽室に2人の笑い声が響いた。
「ありがとう祥子さん。それと清子小母様にも言っといてくれる?」
「ええ、伝えておくわ」
「うん、よろしくー。あ、ねえ祥子さんもしかして小母様のも手作り?」
「もしかしなくてもそうよ」
「おわー…、それは大変だったね色々と」
「ええ。本当に…大変だったわ」
その時の事を思い出してか、祥子さんは頭を押さえてふぅっと息を吐いた。
どうやら清子小母様はまたやったらしい。きっと1年分くらいのマフィンを作ったに違いない。暫くは見たくも食べたくもないわと言う祥子さんのぼやきからそう察せられる。私としては凄く嬉しかったんだけれど、身内の人間としては大災害だったらしい。限度と言うものを知らない清子小母様、でも悪気があるわけでもなく、本人は至って純粋な気持ちで喜んでもらおうとしているから誰も何もいえないし、憎めないのだ。
随分と前に見たふふふっとお茶目に笑う清子小母様を思い出して、急に会いたくなってしまった。
「ねぇさんお願いがあるのだけれど…」
「ん?なあに」
「その…。よかったらでいいのだけれど、今度家に遊びに来てもらえないかしら?」
「え!?」
「嫌だったらいいのよ。ただ、お母様も凄く会いたがっていたし、私も…」
「ううん嫌じゃないよ!行く行く。丁度ね小母様に会いたいなって思ってたんだ」
思いもよらないお誘いに私は即座に返事をした。そんな私を見て祥子さんはほっとしたようにしている。何をそんなに構えていたのかわからないけれど、もしかして私が断るとでも思ったいたのかもしれない。そんあことあるはずが無いのにな。しかもお願いだなんて言われたらねぇ。
「迎えに行くから家で待っててちょうだい」
「え、悪いよ。途中まで行くから」
「良いのよ。私が迎えに行きたいって思ったんだもの」
「そう?じゃあお言葉に甘えて。あ、そうだチョコのお礼何が良い?」
祥子さんは「要らないわ」と言ってくれたけれど貰ってばっかりじゃ悪いような気がする。それに本当に嬉しかったから少しでもその気持ちを返したい。別にたいそうなお返しは出来ないけれど。
そう伝えると祥子さんは「じゃあ…」と暫く考えるように目を瞑った。いったいどんなことを言ってくるのかとどきどきしていると何てこと無い、昔2人でよくしていた事だった。
「こんなのでいいの?お礼にならないような気がするけれど」
「あら、私は十分よ」
そんな綺麗な笑顔で言われると聞いたこっちがなぜか恥ずかしくなってしまう。そんなに嬉しそうな顔をしてもらったら申し訳ないんだけれども。
それにしてもこれこそ本当に久しぶりだ。余りにも久しぶりすぎて緊張してきてしまった。誰もいない、祥子さんとの2人きりだというのに、いったい私は何に緊張しているというのか。
そんな私に追い討ちをかけるように祥子さんのさらりとした黒髪が頬に当たる。多分シャンプーの匂いだと思うけれど、そのいい香りが漂ってきて、さらに心臓が早く動き出してしまった。
「もっとこっちに寄って」
「う、うん…」
「どうしたの?」
「いやなんか、すごくどきどきするんだよねー…。久しぶりだからかな?」
だんだん顔まで熱くなってきて、正直自分でもどうしたのかわからない。こんなのは初めてだった。
「私も…さんに負けないくらいどきどきしているわ」
「祥子さんも?」
「そう、私も」
祥子さんでも緊張することがあるんだと言ったら「誰の所為よ」となぜか怒られてしまった。訳もわからず首をかしげていると祥子さんに早く始めましょうと急き立てられて、慌てて私は鍵盤に右手を置いた。
私はピアノを習っているわけではない。やっているといっても授業でという程度でしかないので、両手で曲を弾くなんていう芸当はできない。片手でメロディーを弾くのでいっぱいいっぱいだったりする。
祥子さんが殆ど弾いているようなもので申し訳なく思ったけれど、私はすごく楽しかった。演奏の途中で、そんな余裕はないのにちらりと祥子さんを伺うと、それに気が付いたのかにっこりと微笑んでくれた。それはまるで楽しいわねって言ってくれているようで幸せな気分になった。
心地よい音色と、祥子さんとの連弾。誰のためでもない、自分たちだけのための演奏をいつまでも私たちは奏でていた。