そういえば、と鞄の中に入っている文庫本を取り出してみると思ったとおり、返却日が今日の日付になっていた。

これはうっかりしすぎていた。気づかなかったら一体どんな目に遭っていたのかと思うと考えるだけで恐ろしい。

すぐさま下駄箱に向けていた身体を図書館へ方向転換させると、競歩の選手並みの……いや、足元にも及ばないけれど、自分の中では最高速度の早歩きで向かっていく。本当は走っても良かったけれど、万が一シスターなどに見つかると面倒くさいので細心の注意を払う。言い方を変えれば、見つかった場合良い言い訳にするつもりだったりするのだが。

まったく、読み終わったのにすぐ返しに行かないのは私の悪いところだ。なんですぐに行かないかなぁ、私。めんどくさいとか、忘れっぽいからだとかそんなのは言い訳にならないんだからなって前に誰かに言われたな。その通りだったからぐうの音も出なかったよあの時は。

1度うっかりしてて返却日をだいぶ過ぎたことがあったっけ。その時ももてるだけの力ではしっ……歩いてったっけ。まあ、どんなに急いでも期限過ぎているんだけれどもそこはね、人としてたとえ間に合わなくとも全力で対応するべきでしょう。頑張ったと思うんだ。

でも他の人にとったらそんなの関係ないのも当然でなわけで、要は何を言いたいのかというと、その日の当番だった図書委員の人にめちゃくちゃ怒られました。超怖かったなぁー……。この歳になってあんなに人に怒られるなんて思ってもみなかったさ。泣きそうになったもんねほんと。

だからその後は気をつけるようにしてたんだけれども、相変わらずいつも期限ぎりぎりだったりするんだよねこれが。今回なんて最悪の事態だ。思い出したから何とかセーフだったけれど家に帰っていたら…アウトだったよ。よく思い出した自分、偉いぞ。あんな思いをするのは2度とごめんなんだからな。綺麗な人ほど怒らせると怖いって本当だったっていうのを実感したんだから。

あーだこーだと考えているうちにゴール、もとい図書館へといつの間にか着いていた。えらく懐かしい思い出を回想したもんだと返却ポストに本を入れようと思ったが、せっかくなので本を借りて行く事にした。

ドアをそっと開けるとそこから何かの境界線みたいに静寂に包まれた空間へと変わる。この暗黙のルールで作られた空間が好きだったりする。公認で静かにしなければならない場所ってなんだか不思議で、そう考えるとなんかよく分からないけれどすごいと思う。そして時々この中でおもいっきり叫んでみたい衝動に駆られるのは私だけなんだろうか。馬鹿みたいかもしれないけれどたまにそうなるのだから仕方ない。きっと本能なんじゃないかと思うんだ、私のだけれどね。

叫んでみたいけれど出来ないっていうのが更にこう何か沸き立たせるものがあるんだよね。想像だけで終わらせなければならないのは実に残念だと思うわけ。とかいって実際にやったらえらい事になるだろうけれどもね。この前怒られたやつの比じゃないって事だけは確実に分かる。そう、これだけは自身をもって言える、絶対だ。

「やっと来たわねさん」
「わひぃ!?し、静さんだったんだ今日の当番」
「ええ、見ての通りだけれど。それより入って来て早々その態度はどういうことなのかしら?」
「い、いやーその色々とあってね?」
「色々と、ね。じゃあその色々とやらを聞かせてもらおうかしら」
「うぅ…そ、それだけは勘弁してください」

言える訳がないじゃないか。言ったらきっと怖いに決まってるんだから。今だに静さんには逆らえない私はなんて可哀相なのだろう。

何を隠そう、1度めちゃくちゃ怒られたという図書委員は静さんのことだったりする。

はたから見れば楽しそうに話している様にしか見えないそんな光景。しかし実際は笑顔のまま淡々とお説教をする人間とそのお説教を半なき状態で受けている人間の図でしかなかったのだ。思い出すだけで身震いがしてくる。怒鳴られたり怒りをあらわにしていたりするわけでは無かったのにあんなにも怖いものだとは思わなかった。

そしてこの人を2度と怒らせてはならないと誓ったのだ。

それを思い出してて怖かったのを思い出してただなんて言える筈も無い。これだけはいくらうっかりしている私でも言うまいて。

「そんなに言えない事なの。ふーん、そう」
「……その顔やめてくれないかな、できれば」
「あらその顔ってどんな顔かしら?私はもともとこういう顔なのだけれど」
「違うよ、いつもそんなんじゃないもん。私なんかした?」

静さんは分かっててやっている。結構あの時の事が私の中でトラウマ化としていることを。笑顔のままで怒られるのはなぜだかすごく怖いんだよぅ。それなのにわざとやるってことは私が何かした証拠だ。それも無意識に。もちろん分かってたら怖くて出来ないもんねそんなこと。

「自覚はあるのわけ?」
「……まったく」
「じゃあ気が付くまでこのままね」
「ええー!!?あー、あー、あ!遅れてごめんなさい」

きっと本を返すのが遅くなったからに違いない。慌てて鞄から本を取り出して、丁重に静さんへと渡した。

静さんは一瞬呆気に取られたけれどすぐ差し出した本を受け取ってくれた。そして笑顔から呆れ顔になって溜息をひとつ。

「合っているようで合っていないのよね」
「え?どういうこと?」

訳が分からず首をかしげていると額にでこピンを食らってしまった。地味に痛くてじんわりと涙が出てくる。額を押さえたまま「なぜに?」と抗議の視線を送るけれどもあっさりとそれは無視されて、静さんは今しがた返却された本の処理を始めてしまった。

静寂の中に沈黙が落ちる。それはいつもと同じだけれども今はとても気まずいのはどうしてだろうか。じっと静さんを見つめてもちっともこっちを見向きもしない。絶対気が付いているのに無視とは酷いもんだ。

「なんで私が怒ってるのか分かってないでしょう」
「う、うん」
「知りたい?」
「うん、知りたい」
「そう。ならそこの本でも読んで勉強してみたら」

そこの本と言われた方向に視線を持っていく。…恋愛小説?恋愛小説。うん、あれは間違いなく恋愛小説だ。ということは、どういうことだ?読めば静さんが怒っている理由でも書いてあるのだろうか。だったら読むしかないけれど。

取り合えず近くによって適当に1冊手にとって見る。さらっと流し読みをしてみるけれどもなんだかよく理解できない。分かったことと言えば今すぐ欲しい答えは書いてなかったということだ。

私は本を閉じると元の場所にそれを戻して、静さんのも元へと引き返した。

「分かった?」
「分かりませんでした」
「でしょうね。はぁ…これじゃあちっとも前に進まないわ」
「なんのこと?」
「なんでもない」

静さんはそう言ってもう1度溜息をつくと恨めしそうにこちらを見てくる。でも何を言うわけでもないので、なんでそのようにみて来るのか分からずまたもや首を傾げるしかなかった。

しかしその時に私に奇跡が起こった。あることを思い出したのだ。きっと静さんはそのことを言いたかったに違いない、そう確信して私は自身たっぷりに言った。

「そうか!今日バレンタインだもんね」
「!」
「聖さまに早く渡しに行かなきゃ行けなかったんだ。なのに私が遅くなったから怒ってるんだ。そうでしょ?」
「……」

またも気まずい沈黙が訪れる。静さんそんな救いようが無いってあからさまに分かるような目で見ないでください。

いい所までいったと思ったのにどうやら的をはずした訳でなく、的すら違ったようだ。もうお手上げ状態です。

「聖さまにはもう渡したわ」
「え!?あ、そ、そうだったの。ははは…」
「……私本当は今日の当番じゃないのよ。わざわざ代わってもらったの。何でだと思う?」

なんでかと聞かれても私の頭では分かるはずもない。私は答える代わりに頭を振った。

「貴方が絶対にここに来るって思ったからよ。私はさんにどうしても会いたかったの。それも2人きりで」
「2人きりで?」
「邪魔が入ると面倒だもの。貴方に渡したいものがあったの。流石にそれは分かるわよね」
「ちょ、チョコレート?」
「当たり。はい、これ」

そう静さんに渡されたのは青い箱に入ったチョコレートだった。

予想外の展開に私は何も言えなくなってしまう。だってまさか静さんからチョコレートを貰えるだなんて思ってもみなかったんだから。本命一本しか作らないのかと思っていたよ。

「ありがとう静さん!」
「どういたしまして」
「嬉しいなぁ。ね、食べても良い……って駄目に決まってるよね」

なんたってここは図書館で、もちろん飲食禁止になっている。折角だからすぐ食べたかったけれどお預けのようだ。

「今日は特別に内緒で、ね」
「え、いいの?」
「ええ」
「やったー!」

私はカウンターの中に入って静さんの隣の椅子に座ると、貰ったばっかりの青い箱を開けてチョコレートを1つ摘むと早速口に入れる。香ばしいアーモンドと甘さ控えめのチョコの味が口の中で広がった。

「うん、美味しいよ」
「そう、よかった」
「静さんもほら。あーん」
「い、いいわ私は」
「えー、なんで?」
「作ってるときに味見で食べたもの」
「そんなの良いじゃん。それはそれ、これはこれ。はい、あーん」
「……あ、あーん」

ちょっと抵抗をみせたが静さんは口を開けてくれたので、チョコを食べさせることが出来た。こういうのは初めてでなんだか面白い。それに恥ずかしがっている静さんを見れるというのがまたいいんじゃないかな。

本当は聖さまにこういうのして欲しいんだろうけれども、今日は私で我慢して欲しい。今度聖さまを脅して…じゃなかった、頼んでみようかな?喜ぶかな静さん。

「でも静さんから貰えるなんて思わなかったな」
「あら、なぜ?」
「本命だけ作ると思ってたから。あまり義理チョコとか友チョコとかに興味なさそうだから」
「……本当に鈍いわね」
「へ?」

もぐもぐとチョコを食べていると隣で静さんは頭を抑えていた。どうやら何かあったらしいのだが私には察しがつかない。ただ何かが鈍いというのは分かったんだけれど、その“何か”の正体までは判明しなかった。

「言っておくけれど聖さまに渡したのは本命じゃないわよ」
「へ〜……って、え!?そうなの?じゃあ本命のは?」
「今さんが食べているやつ」
「ぅえ!?これだったの本命のやつ。駄目じゃん間違って本命のチョコと義理チョコ聖さまに渡しちゃあ…って何で怒ってるの?」
「別に怒ってないわ」
「いや、その顔怒ってるじゃん。何、また私なんかやらかした?」
「さあ?」
「さあって…。そんな顔で見ないでー」

前に怒られた時のより怖い笑顔なのは何故なのか。私は何か言ってはならないことを口走ってしまったようだけれど、どこら辺がNGだったのかが分からない。駄目だししたのがいけなかった?一応心配してのことなんだけれど、ちょっとカチンときたのかな。それにしては怒ってる度合いが半端ではないんですけれど。

「ここまできたら嫌がらせとしか思えないわね。本当、私専属の嫌がらせ師かしら?」
「え、嫌がらせって何が?」
「ここまでいって分からないのもある意味才能なのかも知れないわね」
「し、静さん言ってることがさっぱり」
「鈍感王というべきよねやっぱり」
「それ私のこと?」
「あなた意外にこれがぴったりな人いないわよ」

笑顔のまま怒られるというのはやっぱり怖い。2度と怒らせたくは無かったのに、それは夢へと消える。

そして静さんの怒りが収まるまで少なくとも一時間はあって、その間何度も泣きそうになったことは言うまでもない。