私は決して姉バカなんかではない。

だけどこれだけは言える。

私の姉は天才だ、と。








私は幼い頃ピアノを習っていた。

始めたきっかけはごく簡単なもの、友達がやっていたから。

そんな理由でも子供の私には十分だった。

キラキラと瞳を輝かせて自慢げに話す友達がとても羨ましかった。

たったそれだけ。

それでも私は母にお願いをしてピアノを習わせてもらう事ができた。

だがさすが母親である。

どうやら私がピアノを習いたいと言った動機を分かっていたようだ。

だから母は私がピアノを習う代わりに一つの約束をした。




、一つだけ約束して?」

「やくそく?」

「そう約束。できる?できたらピアノ習わせてあげる」

「うん!やくそくできるよ!」

「じゃあ約束。一つ曲が弾けるようになるまで絶対に途中で辞めないで頑張ること」

「わかった!」




母が提示した約束事はいたって簡単なもので、一つ曲を弾けるようにすることだった。

私は胸を高鳴らせながら母と指きりを交わした。



こうして私は晴れてピアノ教室へと通う事になった。

毎日同じ練習だったが、楽しかったのを覚えている。

そのときの私は、新しいおもちゃを手に入れたようなそんな感じだったのだろう。

次第に少しずつではあるが、上達していくのが自分で分かるようになると、私は本当の楽しさを理解できるようになった。

恐らく母は私にこれを学んで、上達していく楽しさを知って欲しかったのだろうと思う。

子供の私はがむしゃらに練習して少しずつ、少しずつ上手くなっていった。

その度に母や皆に褒めてもらえるのが、私はとても嬉しかった。



「ねぇ、ピアノってそんなに面白いの?」


二つ上の姉が突然私に聞いてくる。

もちろん私の答えは決まっていた。


「うん!すっごくおもしろいよ!」


私はそう笑顔で答えた。

姉も毎日笑顔で帰ってくる私を見て気になっていたのだろう。

それで興味を持ったのだ。



「私も習ってみようかしら?」

「うん、おねいちゃんもいっしょにやろ!」



私がそう言うと、姉はにっこりと笑って母の元へとかけて行った。



だが、私はここでミスを犯してしまったのだ。

この時、私は自分を苦しめる運命を選び取ってしまった。


姉はさっそく次の日から私と共にピアノ教室へと通った。

私はいつもと同じように、姉は指の置き方などの基礎から始まった。

しかし姉はその一日でかなりの上達振りを見せる。

その上達振りに周りの大人達は驚きの声を上げていた。

もちろん私もだ。

そして日に日に迫り来る姉の上達振りに、私は始めて焦りと悔しさを思い知らされた。

父達は、江利ちゃん、江利ちゃんともてはやす。

前から姉は父達に可愛がられていたが、それはどんどん増していった。

私の上達など姉に比べるとないに等しく、褒めてもらう事もなくなり、それどころかよく姉と比べられるようになった。



「あの二人姉妹らしいわよ」
「うそ、本当?」
「本当よ〜。でも上手さが全然違うのよねぇ」
「妹のほうが先に始めたみたい」
「じゃあ、追いつかれちゃったの?」
「お姉ちゃんのほうは凄いわね」
「まだ二週間もやってないらしいわよ」


そうやって大人たちの会話のネタにされた。

聞こえないとでも思っているのだろうか?

私がその大人たちの心無い囁きにどれほど傷ついていたのかも知らずに。



「江利ちゃんはすごいな!もう曲が弾けるようになったのか」

「さすが俺達の妹だ」

「うんうん。凄すぎだな」

「江利子は自慢の娘だなぁ」



外でも家でも大人たちは私と姉を比べる。

その言葉は私を確実に傷つけていった。

姉は褒めて貰っているというのに全く嬉しそうな顔をせず、逆に鬱陶しそうに父達を見ている。

そんな姉の気持ちなど私には到底理解する事はできなかった。

いつしか私は姉に対し負の感情を持つようになり、そして姉を遠ざけるようになった。

私はピアノを習うのが苦痛になっていた。

楽しいと感じていたのは消え去り、すぐにでも辞めてしまいたいとさえ思っていた。

だが母と交わした約束がある。

その約束を守るために私は一心に頑張るのだった。



「江利ちゃんコンクールの代表に選ばれたんだって!?」

「そうなのか!?いやもうこれは優勝間違いなしだな」


姉はその才能を見込まれ、短期間で代表に選ばれていた。

父達が勝手に盛り上がるのをよそ目に、我関せずと言った様子で姉は黙々と夕食を食べている。



「ごちそうさま・・・」


そう言って私は夕飯にほとんど手をつけずに残す。

こんな中食事ができるほど図太い神経は、残念ながら持ち合わせていなかった。


「こら、全然食べていないじゃないか。江利ちゃんを見てみろ」

「そうだぞ。江利ちゃんは好き嫌いしないで何でも食べるぞ」


好き嫌いの問題ではないのだときずかずに兄達は一方的に叱ってくる。

ここでもまた“江利ちゃん”だ。


「・・・・・・」

「黙ってないで食べなさい」


とうとう幼い私にも限界が来る。

私が歯を食いしばりぽろぽろと涙をこぼすと流石に皆驚いていた。


「あなたそんなにも言わなくても良いじゃないですか。それには好き嫌いなんてないんですよ?」

「そ、そうなのか?だがなぁ、もう少しだけでも食べなさい」

「・・・・・っ!!」

!」


私は父に箸を投げつけ自分の部屋へと駆け込む。

父が私を呼ぶがそれに答えるわけがない。

幼い私には自分の気持ちが上手く言葉にできるはずもなく、ただ泣く事しかできなかった。



努力の甲斐があって、ようやく私は一つ曲を弾けるようになった。

母は私を褒め、頭を撫でてくれた。

私は嬉しかった。

弾けるようになった事、母が褒めてくれた事。

でも何より喜びを感じたのは、この状況にやっと終止符が打てる事だった。



「おかあさん」

「何?

「・・・ピアノやめる」


母は目を見張り、しゃがみ込むと私と視線を合わせる。


「ピアノやめるの?せっかく弾けるようになったのに?」

「ごめんなさい。でもやくそくはまもったよ」

「そうね・・・・でも」

「も、やりたくない」

「そう・・・わかった。、頑張ったもんね」


優しく私を撫でながら母は言った。

にっこりと笑いながら、でもどこか悲しそうに。

こうして私はピアノから、いや苦しみから解放されたのだった。

そして姉はというと、驚くことにコンクールに出ることなく私の後を追うようにすぐ辞めてしまう。

父や兄達はそんな姉を止めたが聞く事はなく、姉がピアノ教室に行く事は二度となかった。



しかし、終わったかのように見えた私の苦しみはその後も続いた。

私が何かを習ったり、始めたりすると決まって姉はまねをした。

その度姉は私を追い越し、出来の良い姉出来の悪い妹と比べられるのだった。

母はいつも一つだけ私と約束を交わす。

だから私はその約束事を達成させるとすぐに辞めた。

そして姉もその度に私を追うように辞める。

いつしか私は何もしなくなった。

何かをすればあの苦しみが付いてくるから・・・。





私はリリアンの中等部の2年生になった。

学校でも姉の存在は大きかった。

あの姉ということもあったが、黄薔薇の蕾の妹になってからはなおさら。

私は学校でも比較され、何かあれば姉の名前がでてくる。

毎日が本当にうんざりで嫌だった。

そしてとうとうその時がやってきたのだ。

決壊したダムのように何かが溢れていった。

それが起きたのは夏休みに入る終業式の日だった。



「ただいま」

「江利ちゃんこの成績はすごいな!」

「うんうん、俺感動したよ」

「そうだ何かご褒美に買ってあげるよ。何か欲しいものあるかい?」



いつもの様に姉を褒め称える兄達を無視してリビングに入り、テーブルに通知表を置いてさっさと二階へ上がった。

私の成績は姉とは違い、いたって普通の中の中ぐらい。

わざわざ見せる事もないし、見る事もないだろう。

そして夜、そろそろ夕食の時間だなと思い下に下りていくと父が私の通知表を見ていた。

そして父は私に気が付くと手招きをする。


「ああか。こっちにきなさい」


父に呼ばれ仕方なく行きソファに座った。


「うん、悪くはないんだがな良くもないんだよなぁ」

「悪くはないんだからいいでしょ?」

「それはそうなんだが。なんというかな、江利子がお前と同じときは・・・・」


まただ。

また始まった。

私がもっとも嫌とする時間がやってきた。

一体この人たちは何がしたいのだろうか?

そんなに私が疎ましいのだろうか?

もう、ここには居たくない・・・・・・

そう思ったとき私の中で何かが崩れていった。

私はすっと立ち上がり父から通知表を奪い取ると、それをびりびりと目の前で破り捨ててやった。

この私の行動に父も、兄達も、そして姉も驚く。

私はそんな父達をきっと睨みつけ大声で叫んだ。


「いい加減にしてよ!!いつもいつもいつも!小さい頃から比べられてきた私の気持ちあんた達に分かるの!?出来のいい姉、出来の悪い妹って言われ続けてきた私の気持ちわかる?先生や先輩や後輩、しかも知らない人にまで。一体私が何したって言うのよ。そんなに楽しいんだ、そうやって人をバカにするのが。皆いい趣味してるんだね」


そういい残し玄関へと走る。

当てなんかもちろんない、けれどもうここには居たくなかった。

とにかく行きたかった、ここではない別のどこかへ。

靴を乱暴に履いてドアノブに手をかけた瞬間、左手を誰かにつかまれる。

振り向いて見たその人物に私は目を見張った。





「・・・何?まだ用があるの?まだ私をバカにしたいわけ」

「そうじゃない。聞いて」

「今更何を聞けばいいの?離して!」



左腕に思い切り力を入れてその手を振り払う。

姉は何かを言おうとしていたがその前に私が言ってやった。


「お姉ちゃんなんか大嫌い!!」


勢い良く外へ飛び出し、がむしゃらに走った。

とにかく家から遠くへ行きたくて周りも見ずに走り続けた。




気が付くと私は知らない公園の前にいた。

いつの間にか泣いていたらしく頬が涙でぬれている。

頭はボーっとしていたが、足は自然に公園へと向かっていった。

外灯の灯りだけが照らす公園は薄暗く、当たり前だが人一人いない。

でも不思議なことに怖いと感じなかった。

なぜだろう、ここには来た事もないのに何故か懐かしく安心する。

私はブランコに座り足を地面につけながら前後へと揺らした。

キーキーっと少し錆び付いている音が公園に響く。

昔よくブランコで遊んだなぁと笑みがこぼれた。


「誰とだっけ・・・。ああ、お姉ちゃんとだ」


ふっと懐かしさがこみ上げてくる。

私はブランコを漕ぐのがへたくそで、いつも姉と二人で一緒に乗って漕いでもらっていた。

可笑しくなって笑っていると少し寂しさがこみ上げてきてついお姉ちゃんと呟いてしまった。



!!」


まさかと思い声のした方をみると、公園の入り口に姉が立っていた。

走ってきたのだろう、苦しそうな表情をして肩を上下に揺らし、荒い息を吐いていた。

額にはうっすらと汗をかいている。

姉は三度ほど深呼吸をすると私のほうへと歩いてやってきた。



。探したわよ」

「別に探して欲しいなんて頼んでない」

「・・・そうね。探したのはあなたの為じゃないわ」

「えっ?」

「私のためよ。私はあなたが大好きだから」


私は眉をひそめる。

姉が何を言っているのか全く分からなかった。


「意味分からない」

「私はね、あなたが羨ましかったのよ」


私のことを羨ましかったと言う姉の表情はどこか寂しそうに見えた。

私は私で驚きの声を上げてしまう。

馬鹿にされていたとは思っていても、まさか羨ましいと思われているなどと、これっぽっちも思ってもみなかった。


「分からないって表情しているわね」

「・・・・分からないもん」

「私の苦手なもの分かる?」

「・・・わかんない」

「じゃあ得意なものは?」

「知らない」

「それが正解。私は得意なものも苦手なものもない。ほとんど出来る。けれど限界も分かるから熱中することもない。ただやるだけよ、天才には適わないのだから」

「なっ!?何でも出来るんなら十分じゃない」

「本当にそう思う?好きでもなければ嫌いでもない。楽しくも面白くもないことを永遠とできる?」



そう言われて私は何も言えなかった。

はっきり言ってそんな世界はつまらないと思ったから。



「だからね、あなたが羨ましかったの。いつも楽しそうにしていたが。きらきらと瞳を輝かせて熱中しているがね。私もあなたがやっている事をすれば同じようになるのかしら、そう思っていたのよ」


これでわかった。

なぜ姉は私と同じ事をしたがったのか。

だが辞めたという事は楽しくなかったという事だろう。



「でも楽しくなかったんでしょ?」

「結果的には」

「じゃあ、何で分かってるのに何度も繰り返したのよ!」



それを聞いて腹が立ってしまった。

その度に私がどんな思いをしていた事か。

そんな私を見て姉はふふっと笑う。

こんなに楽しそうに笑う姉の顔を見るのは久しぶりで、私は呆気に取られてしまった。


「結果的にはって言ったでしょ?途中までは楽しかったのよ」

「途中までって?」


眉を寄せ訝しげに姉を見ると、姉はより一層笑みを深くした。


が辞めてしまうまで」


驚いて声が出なかった。


「最初はわからなかったの。ああ、またかって思って。でも三回目ぐらいにねわかったのよ。と一緒にやっているから楽しいんだ、面白いんだって。だからが何かを始めると一緒にやりたかったのよ」

「そう・・・なんだ」


なんだかおかしな結末だ。

一体今までのはなんなんだろうと力が抜ける。

まさかこんな形で終わろうとは思いもしなかった。



「ごめんなさい。があんな思いをしているなんて思わなかった。自惚れしていたのね。一緒にいると私は楽しかったからてっきりも楽しいと思っていてくれているのかと思って」


随分なご意見だと私は可笑しくて笑ってしまった。


「あははは。何それ?」

「だって、昔それはもうヒヨコのように毎日私の後にくっついてきたのよ?お姉ちゃん、お姉ちゃんって」


姉はとても嬉しそうに話す。

こんな姉の表情を見るのは初めてかもしれない。

それに私は忘れていた。

そんな微笑ましい思い出があったことを。

嫌な思い出でで忘れてしまっていた。



「それにいつだったか言ったのよ?私お姉ちゃんのお嫁さんになるって」

「へっ!?」


その言葉に顔を赤くする。

まさかそんなことを言っていたとは・・・

姉は近づき、私の頬を両手で挟むと言った。


「ねぇ、まだ私のこと好きでいてくれてる?それともやはり大嫌いかしら?」


顔を逸らしたかったが、頬をしっかり押さえられていてそれは叶わない。

姉はじっと目を見つめ、真剣な表情している。

私は今までたくさん辛い思いや悲しい思いをしてきた。

そんなの答えは決まっている・・・



「だい・・・・・」

「だい?」

「・・・・・好き」



照れくさくて視線を逸らしながらぶっきらぼうにそうそう呟くと、視界が急に暗くなり息苦しくなる。

何事だと思ったが何てことない、姉が私を抱きしめていたのだ。


「本当は聞くのが怖かったの。でも思い切って聞いてよかったわ」


姉は身体を離すとすがすがしそうな顔で言った。


「私も大好きよ


そういった後の姉は気のせいだろうか、少し頬が赤く染まっているように見えた。






                             

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